日本茶の歴史
お茶の発祥は中国で、日本茶も同じようにもとをただせば中国から伝わってきました。いつの時期に伝わって来たか確実な時期は不明ですが、遣唐使の僧によって伝えられたと言われています。
ですが、遣唐使がお茶を持って来たことで日本茶が生まれた日『日本茶の日』となっている10月31日が現在最も信頼性の高い日付と考えられています。
全国各地にお茶の種をまいたとして最澄や弘法大師の伝説は多く残っています。中でも年代として最も古い記録にあるのは嵯峨(さが)天皇に永忠(えいちゅう)がお茶を献上したと記載されている『日本後記』(815年)となっています。
鎌倉時代
鎌倉時代に入りますと、抹茶文化が大きく普及してきました。この事で次第にお茶の木が広まって行き、京都に送られたことで宇治茶誕生のきっかけともなりました。
この後も各地の寺院を中心に茶木が植えられて行き、茶の栽培がどんどん広がって行きました。
室町時代
南北朝時代から室町時代までかけて、様々な産地が生まれて来ました。鎌倉時代に伝わった京都以外にも、大和、伊賀、伊勢、駿河、武蔵など、記述として残されています。
これ以前までのお茶は嗜好品というよりも薬の役割として扱われていました。しかしこの時代から「闘茶(とうちゃ)」「茶寄合(ちゃよりあい)」などの名称で、お茶の利き当てや連歌を行って楽しむ集まりなどが盛んに行われるようになりました。
15世紀の後半に禅を基礎にして出来上がった侘茶の基礎『四畳半の茶の湯』が完成されました。その精神は千利休に受け継がれ、ただ唐から渡って来た物の鑑賞会な茶会から、精神を静める世界を作り出す物へと昇華させました。
この『侘茶』がどんどん広がって行き、16世紀末には戦国武将を中心にたしなまれて『茶道』の完成へと至ったのです。
お茶も年貢の1つとして数えられ、経済の一端を担うほど重要な農産物であったとも言えます。この頃から、徐々に生産量も増えてきたとされています。
江戸時代
17世紀の中ごろになると、釜炒り煎茶の文化が改めて中国から伝わってきました。
京都宇治にいた永谷(ながたに)宗円(そうえん)が抹茶の製法を応用することで、現在とほぼ同じ煎茶製法を作り出しました。これにより煎茶が広く知れ渡るようになりました。
ここからさらに100年の年月が経ち、玉露が発明されることになりました。
この時代から今まで戦国武将など位の高い人たちが飲む物だったお茶が庶民の手にもわたるようになり、本格的に全国に広がっていきました。
