六茶人
現代においてお茶が一般化した事は前のページで説明しましたが、その道のりで最も活躍した六人の茶人、お茶の道を切り開いた人物がいます。
それが「最澄」「空海(弘法大師)」「栄西禅師(ようさいぜんじ)」「明恵上人(みょうえしょうにん)」「聖一国師(しょういちこくし)」「隠元禅師(いんげんぜんじ)」の6人です。
では彼らについてそれぞれ紹介していきます。
最澄
正史においてお茶が登場するようになったのは805年の平安時代からです。この時、遣唐使として派遣されていた最澄が帰ってきて、天台山からお茶の種を持ち帰っていたのです。
その種を比叡山にまいた事から日吉茶園が生まれ、日本茶の発祥の地として今もなお有名な場所になっています。
なぜ最澄が茶栽培を行っていたとされているのでしょうか。それにはちゃんと記録があります。当時最澄が信仰していた天台宗(てんだいしゅう)とは別に、空海が信仰している真言宗(しんごんしゅう)という2つの宗教がありました。
元々最澄のもとで修行していた弟子が空海の方へと移り、帰って来るよう手紙を出した時にお茶を十斤(1斤=約600g)贈ったというエピソードがあります。
ですが元々最澄と空海は仲が悪く、その上信仰している教えの違いから論争が繰り広げられ、最澄は天台宗を確固たる教えにしようと今まで以上にまとめ上げました。
その後は天台宗の教えの基、有名な僧が輩出されると同時に彼らの噂を聞き付けた弟子たちが増え、茶園の栽培がはかどるようになりました。これによって優れた土壌が完成されただけでなく、最澄の志が後世へと語り継がれるようになったのです。
空海(弘法大師)
最澄と同じように唐へと渡っていた空海は、日本に仏教や中国の進んだ技術を持ち帰ってきました。ですが持ち帰ったのは目に見える物だけでなく、お茶を楽しむ心も運んできました。その事は空海の詩や書、著作からうかがえます。
特に空海の詩文集『性霊集』にはお茶に関する詩が多く書き込まれており、それだけでもお茶を好きだという気持ちが伝わってきます。
空海が唐から持ち帰ったとされる石臼は、奈良の仏隆寺に保管されています。なぜここに保管されているかというと、空海がお茶の種を仏隆寺の開祖、堅恵(けんね)に与えて、その上お茶の製法を伝えたことから繋がります。
これが現代に続く大和茶の起源になります。
その他にも奈良だけでなく、伝説に残る四国や九州各地に存在していた茶堂(大師堂)でも、空海を祀って道行く人々にお茶や食事を振る舞っていたという話も存在しています。

