栄西禅師(ようさいぜんじ)
栄西は渡航に生死をかけ、2度目にはインドまで赴こうと計画していました。結果としては果たせなかったわけですが、日本へと持ち帰った物のひとつにお茶の種が含まれています。
ではこのお茶の種は何処から持ち帰ったのか、出所についての研究が行われました。
1191年、栄西禅師は2度目の渡航で宋へと入国して、臨済禅宗を継承してきました。その時に得たお茶の種を佐賀の背振山霊仙寺(せふりざんりょうぜんじ)一帯に植え、同じく栽培製茶法や喫茶法を伝えました。この時に主流となったお茶は碾茶(てんちゃ・抹茶)になります。
1202年、栄西禅師は臨済宗(りんざいしゅう)の拠点として建仁寺(けんにんじ)で開山を行いました。ちなみに建仁寺では今もなお、4月20日に開山降誕会を行って栄西の誕生を祝っています。
栄西禅師は日本に禅を伝えた人物として有名ですが、それと同時に日本初の茶書『喫茶養生記(きっさようじょうき)』の著者としても有名で、歴史に名を刻んでいます。
『喫茶養生記』は上・下巻の2冊構成になっています。上巻の方ではお茶の種類や抹茶の製法をはじめ、体を健康にするお茶の効用が書かれており、下巻では糖尿病や中風、不食、瘡、脚気などの五病に対するお茶の効用と用法が書かれています。
明恵上人(みょうえしょうにん)
明恵上人は鎌倉時代前期に活躍していた華厳宗(けごんしゅう)の僧です。
京都に存在する栂ノ尾山(とがのおざん)高山寺(こうざんじ)を開山して、華厳宗の復興に努めて来ました。また、この高山寺には忘れてはならない場所が存在します。
静けさに包まれた杉並木の向こう側に、古茶園が存在しています。そこは明恵上人が栄西禅師から譲り受けたお茶の種で育てあげた茶園です。なぜここで栄西禅師が出てくるかというと、明恵上人が建仁寺に訪れたことから始まります。
栄西禅師は若い明恵上人に宋の仏教文化などを熱心に教え込み、親しくなったようです。栄西禅師から譲り受けたお茶の種3粒は高山寺で育てられ、実を実らせると明恵上人の手によって日本各地へと広められて茶栽培も行われるようになりました。
とくに栂ノ尾山で育てられた茶葉は宇治茶の元祖にもなり、今もなお有名なお茶です。
宇治の人々が初めてお茶を栽培する時、どのようにお茶の種をまけば良いのか分からずに困っていたところ、明恵上人がやってきて馬へと跨ります。そして歩いた馬の足跡に種をまくよう指示したという話はお茶の伝説として残っています。

