聖一国師(しょういちこくし)
聖一国師は1235年、宋へと渡って禅を極め、1240年に帰国してきました。この時、宋から帰って来る際に千巻にもおよぶ典籍を持ち帰り、その他にも中国の進んだ技術を日本へと伝えてくれました。
宋での長い勤めを終え、1244年、約12年ぶりに家族と故郷で再会した際にはお茶の種を持ち帰り、静岡県の足久保や蕨野(わらびの)に植えました。
なぜこのような事を行ったかというと当時、僧の中には医療に携わる人もいて、その知識の中でお茶を飲む行為、喫茶は養生法の1つに挙げられていました。そのため、お茶は医薬として珍重されていたのです。
のちに安倍川(あべかわ)上流一帯はお茶の適地として良質なお茶を産出できることが判明しました。この産地の発見によってお茶の味に定評が現れ、本山茶の名前が生まれると同時に知れ渡る事となりました。
この発見がきっかけとなり、静岡県の各地でお茶が育まれることとなりました。故に聖一国師は静岡茶を日本一にする基盤を作り出したとも言えます。
隠元禅師(いんげんぜんじ)
今までの茶人は中国に渡ってお茶の種や製茶方法を持ち帰って全国各地に広めていましたが、隠元禅師は中国出身の僧です。6歳の時に行方不明になった父親を捜す旅の途中、茶事の頭役である茶頭を務めたことが仏教との出会いになります。
1654年、長崎の興福寺から懇請があり、中国禅の教えを指導する為に隠元禅師は来日してきました。そして隠元禅師の功績は禅の発展だけでなく、建築、彫刻、医学、書道、絵画、文字、印刷、食文化など、広い分野において多大な影響を与えました。また、弟子によって公開図書館の開設なども行われました。
そして隠元禅師によって発展したお茶の文化で忘れてはならないのが、釜炒り製法と煎茶の喫茶法です。
当時飲まれていた碾茶(粉末にする前の抹茶)はとても高価で、庶民は容易に口にできませんでした。
なので庶民にも親しみやすいよう隠元禅師が開発したのは、自然乾燥させて作る当時の碾茶に対し、鉄釜で炒ることで手早く茶葉を乾燥させ、その釜炒り茶を粉末状にしてそのままお湯に溶かして飲むといった、手間を簡略化させた葉茶の製法と喫茶法です。
これにより一般の人でも気軽にお茶が飲めるようになり、庶民の間でも喫茶が普及して行きました。
また、隠元禅師がもたらした食文化には現在の和食にもよくつかわれる寒天やゴマ豆腐、レンコン、もやしなどがありますが、最も有名なのは自身の名前から名付けられたインゲン豆です。
食文化とお茶の発展に著しく関わった隠元禅師ですが、この他にも『普茶料理』という中国式精進料理も伝えて来ました。『普茶』とはあまねく大衆と茶を共にする、という意味を持っており、席の上下関係なども気にせず一同が和気あいあいと料理を食べるのが普茶料理の作法になります。
この料理は残さず食べることが目的の1つになっていますので、野菜のヘタなども細かく刻んで葛で食べるようにしています。
