中世における日本茶
17世紀中期頃から18世紀にかけて、日本でいう所の江戸時代に当たる時期に日本茶は3人の茶人によって大きな転換期を迎えていました。
まず1人目は前のページで紹介した隠元禅師です。隠元禅師のおかげで上流階級の物だった日本茶(碾茶)を釜炒り茶として振る舞う事で庶民にも手を伸ばしやすくしてくれました。
2人目は永谷宗円(ながたにそうえん)です。彼は1738年、長年の研究によって宇治の煎茶の優品種を作り上げ、現在の煎茶製法に近い方法も編み出したのです。これらの功績によって江戸の茶商「山本山」の山本嘉兵衛(4代目)から絶賛され、この商談以降、永谷園と山本山との長い付き合いが続いています。
3人目は玉露を完成させた6代目山本嘉兵衛(やまもとかへい)です。1835年、彼は布などをお茶の樹に覆い被せて一時的に光を遮断する栽培法、「覆い下栽培」を編み出すことで玉露製法を完成させました。
なお、初代の山本嘉兵衛が「鍵屋」を開業し、「山本嘉兵衛」という名は歴代の当主が受け継いでいます。
彼らの働きによって江戸時代に釜炒り茶、煎茶、玉露など数種類に渡る日本茶が生まれ、庶民に親しまれるようになりました。
この後、ペリーの来航によってアメリカやイギリスなどと修好通商条約を結ぶことで、日本は鎖国を止めて開国宣言をします。この時代の流れによって日本茶も輸出品の1つとして数えられ、日本茶が世界へと広まって行きました。
近代から現代への流れ
日本茶が輸出品として数えられるようになり、今までは国内のみの必要生産量で動いていましたが外国に輸出する分もまでも必要となったので、生産、出荷の必要数が激増しました。
今まで地方ごとにバラバラで生産されていた日本茶ですが、この動きによってまとまった量の生産とそれを効率よく収穫する術が必要となってきたのです。
明治時代初期にはお茶の輸出総額は生糸についで20%も占めており、当時の政府は輸出に力を入れていました。明治の後期には生産量の60%、半分以上もの日本茶を輸出用に生産するほどにまで成長しました。
ですがこれだけの量の需要に応えつつ、輸出競争に勝つためには作業の機械化が必要となってきました。
そこで高林謙三という発明家が次々にお茶に関する機械を発明していきました。中でも粗揉機(そじゅうき)を開発したことで、人件費、労働者の負担、衛生面で問題視されていた元来の手もみを解消させ、全国に機械化の波を広げました。
機械化に続き、近代化によって行われた大きな変化がもう1つあります。それが品種改良です。
その代表例がおおまかな歴史について説明した際にも出て来た『やぶきた』であり、現代においても7割以上が『やぶきた』をベースに各々の茶園を営んでいます。
また、1960年代に入ると高度経済成長と高級志向が重なり、国内の日本茶消費量が増えました。その結果、1960年後半には国内生産だけでは大衆茶の生産が追い付かず、緑茶の輸入が始まりました。
